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個人HP開設しました

おかげさまで今日で54歳ですわ。
記念して個人HPを作ってみました。

お時間あるときに見てやってくださいまへ

http://ikuomnm.jimdo.com

ご時勢と言いますか。。

長い文章が書けなくなってきたのもあり、
日々の日常を「アメブロ」にしたためることに
しました。

変化は大事ですから。

よろしければこちら↓をぜひ。

http://ameblo.jp/ikuomnm/

さとり。その後。

140202チキン・グリーン南.jpg
さとり(みたいなもの)を開いて
2~3ヶ月。。

「ネット関係」からは疎遠に
なっていますが、
音楽活動のほうも多方面に精力的ですし、
(先日のプラッシーワンマンに
 お越しいただきました皆様
 ありがとうございました)

ちゃんと自分らしく社会生活を
行っております。
上機嫌で、おだやかに。

もちろん
「聖人」になったわけではないので、

「毎日世界平和を祈願しています」とか
「道行く人に心の平安を呼びかける」とか
「滝に打たれて祝詞を唱えている」とか

そういうことはしていません。

相変らずいろいろ罰当たりなことも
頭に浮かんでいます。
(口に出さないようになりましたが)

「あっ、いま思考にとらわれていた!」
ということももちろんあります。
(一日のうち50%以上「いまに在る」
 ことができれば上々だと思います)

ここでいう
「さとり」は修行で得るものではなく
ただ単にある瞬間に

「思考は本当の自分自身ではない」

ということに「魂レベルで」
気づいたときに起こるものなので、
別にいままでの生活スタイルが
変わるわけじゃないのです。

ただ、変化はありまして。。

・本当の意味でしたいことしか
 しなくなった
・演技がヘタになった
・自分を外界に表明(証明)する
 必要がなくなった
 (いきおいあまりネットをしなくなる)

つまり「自分を演出する」とか
「とりつくろう」とか
そういうことをしなくなったという。

これは劇的に「魂にいい」ことです。

外界の「状況」は自分自身には
まったく影響しない。
これほど心休まることはありません。

自分を「主体」と「客体」に分けちゃうと
無用の混乱が生じる、と学びました。

で。「主体」だけで生きてたって、
なにも怖れているようなことは
起こりません。

というか、怖れという概念が消えます。

そこんとこが「さとり」の本質かな。

かといって自分勝手に生きるというのでも
ないですが。。
説明は難しい。
しかし説明できないことが真理でしょう。

「直感」の時代が来ているのです。

直感をみがくには「いまに在る」
しかないのです。

南 郁夫
gskobe373@yahoo.co.jp


さとりをひらいちゃったのかもしれない(6)

いよいよ大詰めである。思考を「本当の自分」とみなすとしんどい、ということはご理解いただけたろうか。思考はネガティブな未来ばかりをあなたに提示する。過去の苦い経験をあなたに呼び覚まさせながら(その経験も思考が引き起こしたのに!)。それが特徴なのである。しんどいね。
じゃあ思考を消すにはどうしたらよいのか?いや、言い直そう。思考は消えはしない。コントロールするにはどうするか?
それは、この連載の最初のほうで、ある午前中の例で私の思考を打ち消したものは何か?を思い出していただければ、わかるだろう。さまざまな不安を抱えて上の空で作業をしていた私の目を覚まさせたのは、馬鹿でかい「おかんの声」であった。目の前で起こっている事実に遭遇した瞬間、本当の自分が顔を出し、思考は「消えた」のである。
思考は「苦い過去とありもしないネガティブな未来」が大好物なのだが、「いま、この瞬間」に対抗できない。思考とはあくまで「机上の解釈」なので、目の前でたったいまリアルタイムで起こっている未評価の現実にはコメントできないのである。有事には役立たない。そういう意味では、思考というのは常に幻だと言える。
ピッチャーの投げた球を見極める瞬間に、「来年の契約はどうなるんだろう」と考えている野球選手はいないだろう。体がただ反応してボールを打ち返すだけだ。あるいは、あなたが犬好きなら、目の前にとても可愛い犬が現れたときは何も考えずに「わ。可愛い」と思うはずだ。そこには幻の過去も未来もない。それが本来の自分自身の反応なのだ。しかしながら、それでも思考と自分がひとつになってしまっているときは、そういう反応もできない。「いま」目の前で起きていることを見逃し、思考が作り出す幻を見て生きていることになってしまう。
「思考とひとつになる」とは、「時間のわなにはまる」ことだと、トールは言う。そうすると、「記憶」「期待」「不安」だけを糧にして、過去をアイデンティテイのよりどころにして未来を目標達成の道具にして執着心を抱くようになる。つまり、「いま、この瞬間」を受け入れなくなるのである。
トールは、ずばり言う。「時間の概念を捨てなさい」と。「時間は幻に過ぎない」とも。過去も未来も思考が作り出したものであり、不確かなのだ。「いま、この瞬間」しか現実には存在しないのだから。「いま」以外のときになにかが起こったり、存在することが可能ですか?とトールは問いかける。
ここで、「よくある、今に生きろ、てやつ?それが結論?」と思ってはいけない。私も最初そう思いかけた。勘違いしやすいのは、「今に生きろ」と言われたら、「文句言わずに目の前の課題に向かって努力しなさい」ととらえてしまう、ということだ。まことに我々はよく「しつけられている」のである。
トールが言ってるのは、そういうことではない。目的がどうとか、まわりがどう思うか、などという思考を使わずに、ただ目の前のことを受け入れるために、常にあなた自身を「いまに在る」状態にしておきなさい、ということだ。たとえば思考が作り出した、他人の目を意識したご立派な目標のために、それがまだ達成できていない「いま」を単なる人生の通過点ととらえてしまったら、あなた自身は生きていることにならない、ということ。
我々は思考を使って、自分で歪めたかもしれない過去の教訓めいた記憶と、それに基づいた、まだ起こってもいない不安な未来予測に基づいて行動してしまい、「いま、この瞬間」をないがしろにして「上の空」で「無意識」に行動してしまいがちだ。これこそが苦しみを生み続ける原因なのである。思考が作り出した、過去と未来という幻の時間の概念があなたを苦しませ続ける。
もちろん人との約束などの実用的な時間、つまり「時計時間」は必要だろう。しかし、用事がすんだらただちに「いまに在る」意識に戻る方法を身につけたい。そうしないと、「心理的時間」を心に積もらせて、過去と未来を自分だとみなしてしまう。明確な理由もないのに、なにをしていてもなにかに追い立てられているようなかんじ、これが「心理的時間」に支配されている状態、つまり思考に支配されている状態である。「時計時間」は頭の片隅にあるが、「心理的時間」には左右されない。これが「いまに在る」ためのコツなのだ。
人生は義務ではない。「いま」は思考が定めたご立派なゴールの通過点ではない。「いま」、目の前で起こっていることをわくわくした気持ちで楽しむことのみに集中していれば、実は誰の人生も活気に満ちて新鮮で驚きに満ちてくるのである。
「いまに在る」。実はさとりとは、これだけのことだ。
しかし、これだけで「人生が激変する」と、保証する。過去も未来も自分の思考が作り出したなんの根拠もない幻なのだから(毎日毎日変わりばえがしない人生だと思っている人は、自分の意思でそうしているのだ)、私たちが自由になるのは明日でもなく、来年になったらでもなく、「いま」しかない。
しかしながら、長年の「考えぐせ」というのはなかなか払拭できるものではなく、私も「あ!いま思考にはまってた!」ということが、まだまだ多い。でもそれは「思考を観察できている」という証拠であり、それだけで大進歩なのである。さとりに近づいている。そういうときは、「深呼吸」して「いま」に戻ればいい。私のことをいえば、自分の内部から「ゆったり」か「わくわく」が沸き起こっていれば、「いまに在る」状態だ。不安のない状態、と言った方がよいかもしれない。最近では、はっきりと思考と「本当の自分」の区別がつくようになった。
いまに在れば、すばらしいことが待っている。どうすばらしいかは、トールの書籍をじっくり読んでほしいし、時間をかけて自分の体で感じるしかない。まずは起きている時間の半分を目安に、「いまに在る」状態を維持したい。「ゆったり」か「わくわく」していて不安のない状態、である。他人にどう思われるか?などということを考えてはいけない。それは思考が大好きなパターンである。本当の自分を愛して、大切にすればいい。実にシンプルである。
もういちど言うが、今に在れば、すばらしいことが待っているのだ。健闘を祈る。(完)

*読んでいただいてた方、ありがとうございました。スピリチュアル・ビギナーのくせに、エックハルト・トールの「受け売り」という大胆なコンセプト(ともいえない)であまりにも影響を受けたので思わず長文を書いてしまいました。私自身はトールをきっかけに、いま「心の旅」→「宇宙の旅」の途上でございます。人生はがらっと変わりました。いろんなことが変わらざるを得ません。シンプルな方向に。
皆さんもよい旅を!
南郁夫
gskobe373@yahoo.co.jp

さとりをひらいちゃったのかもしれない(5)

自分の思考(エゴ)は自分自身ではない、ということが実感できたろうか?そうはいってもしかし、なかなか難しいことは事実である。どういうわけか我々は、なにも考えていない時間があると、「いけない!いま、ぼーっとしてた」と自分を戒めてしまう。授業中や仕事中に窓の外を流れる雲にうっとり気をとられていると先生や上司に叱られてきた「しつけ」が、染み込んでしまっている。思考から離れて「ぼーっ」とすることを許されず、常に「人に負けないように」「叱られないように」と打ち込んでいると、ついには本来の自分自身を失い、気負いのない楽しい生き方からはずれてしまうのだが、残念なことにその状態を世間は「ほめる」のである。それもそのはず。現代社会を支配しているのは各自の思考が束になった「巨大な思考(エゴ)」だからである。「窓の外を見てごらん。今日はいい天気だから、国を挙げて休日にしてみんなでのんびりしましょう」などということには、絶対に絶対にならないのである。
たとえば。理由もなく仕事を休んでのんびりしたい、とふと思ったとする。「そんなことをしてたら社会から落伍して路頭に迷う!」と叫ぶ思考をねじふせて会社に電話して、電話口の上司あるいは同僚の「え?」という冷たい声にめげずに、休む。それでもあなたが思考に支配されていたら、せっかくそうしてまで取った休日も、しょっちゅう「休んでよかったのかな?」という思考が作り出す罪の意識に邪魔されるのである。思考に支配されている人生は、しんどい。
「でも。。やっぱり、自分の本当の声より思考のほうが正しそうだ」と思ったあなたには、これ以上申し上げることは何もない。それなら思考に支配されたほうが、いい。
ここからは、思考から逃れられないまでも、せめて自分の思考を観察したい、という人のために「思考の特徴」に関するトールの解釈を、私なりに述べてみたい。
まず。なんども言うが、思考は常に「怖れ」をあなたに与える。思考が与える「怖れ」は目前の危険に対するものではない。(いきなり熊が目の前に現れたときの怖れは、ちゃんとあなたの本能が知らせてくれる。それは体の別の部分が「必ず」教えてくれるのである。)思考は「これから起こるかもしれないこと」に対してあなたに「怖れ」を与えるのだ。あなたは「いま、ここ」にいるのに。たったいま「こんなことがしたい!」と思ったのに、思考は「そんなこと必ず失敗する」と言うのである。まだやってもいないのに。たったいま、「のんびりしていい気分だ」と思っても、思考は「そんなことしていたら他の人に負けるぞ。やるべきことがあるのでは?」と言うのである。あなたは「いま、ここ」にいるのに、思考にむりやり「ありもしない未来」を見せられている。しかもネガティブな未来を。このギャップがあなたに「不安」を与える。だから思考にのっとられた人は「常に不安」なのである。
逆に言えば、将来や外界への不安がなくなれば、思考が作り出すエゴが消滅することになる。「怖れ」とは思考が操るエゴが必死に「エゴをお忘れなく!」とアピールするために繰り出してくる爆弾のようなものなのだ。だから常に思考が送り込む感情は「ネガティブ」である。それだけのこと。そんなものを本当の自分だと勘違いしてたらえらいことになる。ネガティブな感情は、本当の自分の感情ではないのだ!(人間とは本来、幼児のように楽天的なものである。)
思考が作り出すエゴは、持ち主が「そんなもの本当の自分じゃない」と気づけば、あっという間に消滅してしまうことをよくわかっている。エゴがない状態を「さとり」というなら、「そんなことは普通の人には起こらない」と必死で持ち主にアピールしなければならない。なので、どんなときでも思考がフル回転して人間をあやつろうとしているのだ。
議論に勝たないと気がすまない人、がよくいる。あるいは人の話の腰を折って、自分の話しかしない人。この習性をトールは「自分の思考の防衛する目的」によるものだとする。自分の思考を防衛せずにいられないのは、思考を本当の自分と錯覚しているからであり、思考にすがりついているエゴの恐怖に由来するものである。エゴは存在価値を「頭の良さ」「自分の主張の正しさ」などで測っているので、考えが間違っていると証明されたり否定されようものなら、大変なことになり、消滅の危機にさらされるのである。なのでエゴと一体化した人間は、「絶対に負けるわけにはいかない」。そして、自己防衛的な行動を取る。世の中の争いはすべてこれが基になって起こっているわけである。もちろん、戦争も。残念ながら、世界中のほとんどの人間は無意識にエゴに支配されてしまっている。
思考を、ほんとうの自分と切り離してしまえば、議論などには興味がなくなり、自分が正しいかどうかなどどうでもよくなる。議論に勝っても負けても、本当の自分とはなんの関係もないのだから。自己防衛的な行動を自分がしているなと感じたら、「あ!またぞろ思考が操ろうとしているぞ」と気づくようにしたい。本当の自分は誰かに勝ちたいわけでもないし、人間関係を破綻させたいわけでもないはず。
思考に支配されなくなると、実に平和な毎日が訪れる。それは決して、負けたということではない。というか、勝ち負けなどという概念のない、のんびりした世界がおだやかに待っている。その気になりさえすれば誰でも「いますぐ」その世界に行けるのだ。
次回は思考とひとつにならないための重要なポイント、「時間の概念」について。(つづーく)

さとりをひらいちゃったのかもしれない(4)

さとり(4)

「われ思う。ゆえに我あり」と誰かさんが、言った。解釈はさまざまだろうが、思う=思考しているんだから、自分自身は確実に存在しているよね?よね?ちう、悲痛な叫びが聞こえてくる。我々人間は、物心つくと、なぜか自分の存在が不安になってしまったりする。孤立感すら覚えてしまう人もいる。親子関係や人間関係に特別問題がない人でも、だ。そんな難儀な動物は人間だけだそうである(=人間不完全動物説)。
無邪気で、なんの怖れもなかった子どものころとは打って変わって、成長するにつれ自分の「外界」が怖くなってくる。そして必死に自分自身の存在を証明しようとする。そういう「不安」や「怖れ」を与えるのがまさに思考の得意技であり、それを起点にした活動こそが「エゴ」。エゴの誕生である。思考があなたを操って、「私はここにいるよ!」「ねえったら!いるよ!」と、さまざまなアピールを絶え間なく自分以外の「外界」に対して行う。ひきつった顔で。そして、それだけで一生を終える人が多い、というか「それが人生だ」と思っている人がほとんどかもしれない。
「学歴」、「所属団体」、「肩書き」、「所有物」、「お金」などへの度を越した執着は(それ自体が悪いとは言えないのだろうが)、まさにエゴの典型例である。まことにわかりやすいパターン。しかし、そういうことで身を削って生きている人がいるとすれば、まったくご苦労なことであると言わざるを得ない。なぜなら、エゴは、その宿主である人物がひとつの課題をクリアしても、冷酷に次々と課題を突きつけるからである。
エゴを支配する思考は「不安」「怖れ」がなくては生きていけない。「もっとすごい奴がいるぞ」「それでは一番とは言えない」。。終わりがない。しかも「一番」なんてことは誰にも証明できないので、誰ひとり救われない。すると、そこに気づいた人の思考は折衷案を提案し、「せめて世の中の平均になっておいて平均以下の人に勝とう」「リスクは避けてせめて無難なほうにしといたほうが」などと言う。が、エゴはそれが折衷案だということがわかっているので、それに支配されている本人は永遠に心が晴れないちう、「ああしんど」な人生を延々と送ることになるのである。もうちょっとひねくれた思考の持ち主なら、「馬鹿にされないように、誰も目指さない生き方をしとく?」とアウトローを気取ったりして、そんな生き方を必死でアピールしたりするが、それだってエゴに支配されているという意味では、同じことなのである。ああしんど。
思考は持ち主を「外界」と「切り離して」勝負させようとする。だから思考に支配されると孤立感=不安を感じるのである。もしも地球上に人間が自分ひとりしかいないとしたら、誰も「生き方」なんてことは考えないであろう。生きるだけ、である。そして思考は、常に「外界」に向けて何かをさせようとする。「いい会社に入らないと、恥ずかしい思いをするよ」あるいは「その年で**を持っていないようでは、バカにされるよ」「人と違うことをしないと目立たないよ」。。思考はあなた自身にそういう不安を与え、「努力させて」あなたを「何者か」に仕立て上げようとする。それだけでは満足できず、たとえば自分の子どもをいい大学に入れよう、恋人に自分の不安を解消させよう、など他人をもコントロールしようと目論む。そして常に不安でたまらない我々は、自分の行動を必死で外界にアピールすることに、一生を費やすのである。まことに、心休まらない。
私は法事で、悟りに近いところにあるはずである「坊さん」が「ベンツ」で登場して、「自分の知り合いの元ヤンキーが、自分の説話のおかげで心を入れ替え、超一流の三菱商事に入社できた」という説法をたれたので、唖然としたことがある。その俗っぽさもさることながら、それが自慢話になっていることに本人が気づいていないからだ(たいがいの人間の話は、結局のところ自慢話だが)。エゴ、全開である。思考に自分をのっとられている聖職者ほど見苦しいものはない。坊さんにしてからが、心が内面に向いていないとは。
さて。さきほど、「われ思う。ゆえに我あり」にふれたが、この言葉について、トールは重要な解釈をしている。トールは言う。「考えているのが自分、なのではなく、考えているということを感じているのが、本当の自分」と。つまり、「思考」という存在に気がついた「もう一人の自分」がいて、そちらが「本当の自分自身」なのだという解釈。まさに。この「気づき」がすべての始まりなのである。前回に私が「ほーらほら、思考のお出ましだ」と思った、あの感覚である。その感覚さえ体感できれば、思考と自分自身を「切り離す」ことができる。誰にだってできるはずだ。何か不安を感じたら、「ほんまか?その不安」と思ってほしい。「まだ起こってもいないこと」についてくよくよ考えはじめたら、思考のおでましである。
思考は本当の自分ではない。たとえば「思考に乗っ取られた」あなたが、ある決断を迫られたとする。「今後のこと」を考えれば出ておいたほうがよさそうな懇親会と、ステキな仲間がいて想像しただけで「わくわく」するパーティが、重なったとする。不安を行動原理とする思考はもちろん前者を選び、あなたはそちらに参加するが、気持ちは「ざわざわ」している。あるいは、家に「ライフプランナー」なるダークスーツを着た営業マンが押しかけ、「将来の不安」に訴えかけて保険に入らせようとする。あなたは妻の手前もあってサインするが、心は「ざわざわ」している。。この「ざわざわ」こそが、思考に対する本当の自分自身の違和感なのである。
とてもわかりやすくいえば、何かの行動をして「わくわく」したらそれは本当の自分自身のオーダー、「ざわざわ」したら思考のオーダーである。いくら頭で否定しても、この「わくわく」と「ざわざわ」だけはごまかせない。感情は本当の自分自身の反応であり、思考とは別物だからである。
「わくわくしてばっかりだと、路頭に迷うのでは?」と思ったあなたは、またぞろ思考のトラップにはまっている。もちろん、思考は悪者ではない。思考がないと我々は事務処理もできないし、効率的、適切に人生を送ることはできない。しかし、ここが重要なのだが、思考は「使う」ものであるということ。そう。思考と自分自身をさきほどの「わくわく」「ざわざわ」の論理で切り離せばいいのだ。意に沿わないことをしなければならないこともあるだろう。そういうときは「ざわざわするなあ。これは思考がさせてる行動だなあ」と感じるだけで成功である。
ほとんどの人が思考を自分自身だと考えているので、しんどい。なぜなら、何度もくりかえすが、思考は常に「不安」「怖れ」を持ち主に与えるという特徴を持っているから。実はこれは、「単なる特徴」である。もう一度言うが、それは「単なる特徴」なのだ。そんなものを自分自身だと思っていると、一生を「不安」と「怖れ」で終えることになってしまう。そんなの嫌でしょ?
次回は、トールが定義する「思考の特徴」について
(つ、つづく)

さとりをひらいちゃったのかもしれない(3)

トールは言い切る。
「思考を本当の自分とみなすことをやめれば、大いなる存在と一体になれる」
ここで言う「大いなる存在」とは、「あなた自身」ということである。これについては後述するが、私の言葉で言えば「自分が自分であるだけでうっとりするような状態」「自分と心身がぴったりいってる状態」というところだろうか。
ここからは、私のオリジナル解釈で思考というものの実態を解説してみる。たとえば。ある平凡な午前中の人生の状態を、振り返ってみよう。
明確な理由もないのに「なんとなく不安な気分」で目が覚めて、もそもそと朝食を食べる。とりとめのない思考が頭を支配し、何を食べたかなんて、覚えていない。食後、とりあえずスマホをチェックして怒濤のように流れ込んでくる「他人の情報」に軽い不快を覚えながら、PCの電源を入れる。別に締め切りに遅れているわけではないのに、各種のやるべき作業(メール対応や仕事や振込や・・)をしょっちゅう「時計を見ながら」せかせかせかせか、やり始める。この間、思考はネガティブな妄想をまき散らし放題だ。「ぐずぐずしてたら、ヘマするぞ」「その仕事も、いつまで続くかな」「お金はすぐなくなるね」「今日はあの人の誕生日らしいのにメッセしないでいいのか?嫌われたら厄介だぞ」。。などなど。「まだ起こってもいないこと」に対して論議を挑んでくる「思考」にひたすらいらいらしながら、ただただその暴走をBGMに、「無自覚に」いろんなことを淡々と片付けていく。しょっちゅう「時計を見ながら」。
その思考のBGMの「音量」が高すぎて、同居している母親が何度も自分を呼んでいる声に、気がつかない。(耳が遠いので)馬鹿でかい母親の声にやっと「はっ」と気づいたとき、「あ。今日初めて目が覚めた」と思う。その母親の頼みが「ジャムのフタを開けてくれ」で、それに思いっきり力を入れたので、さらに目が覚める。時計を見たら11時。もう2時間も「上の空」で、「無意識」で生きていたことに、なる。
「これではいかんな」と、窓を開けて深呼吸して、借景の裏山の木々をながめ、太陽の温かさを感じ、自分の生命感が「ふつふつ」とわき上がるのを感じる。そして、やっと自分を取り戻して、たとえばこの文章を書くというような大好きな作業を始める。すると、さっきまでの思考のネガティブな大暴走はけろりと忘れて、「人生は楽しいなあ」と感じている。そして時間を忘れ、気がつけば健全に腹が空き、ランチを「無心で」楽しむ頃には、すっかりいい気分になっている。。
さて。
この、ある午前中の例がすべてを言い表していると言えるのである。我々は「不安」を行動の起点にしてしまう。「これをやっておかなければ、不幸なことになるぞ」と思考がささやきだして、人生の大部分の行動をそのスタンスで行う。仕事は「きちんとやっておかなければ失い、生活が困窮して路頭に迷う」、人間関係は「良好にしておかないと厄介だ」、楽しみでやっていることでさえ「締め切り」を作ったりして、勝手に自分を追いつめる。むかしプラモデル作りに凝っているときに、「制作日程表」を作ってしまう自分に笑ってしまったことがある。
ほとんどの人にとって「不安で行動する」ことが普通になってしまっている。その間、その不安を作り出す「思考」に心身を乗っ取られて、能面のような顔でその作業をしているのである。無意識に。仕事中に街で友人に出会っても、まったく気づかない、気づかれなかった、という経験は誰にでもあるだろう。無意識にやっているなら、仕事なら楽でいいのでは?なんて思ったら大間違い。そういう状態は多大なストレスを心に与え、人間として正常な感覚まで失わせる実例は、周囲にいくらでもある。人相も変わる。なぜか。「思考に心身を乗っ取られている」と、本当の自分が「生きていない」ことになってしまうからである。重傷になると、それが常態になってしまう。生きているけど生きていない人が、現にいるのである。
この日、不安で目が覚めた私は、思考に操られていろんな作業をいらいらしながらやっていた。それを打ち破ったのは、「母親の馬鹿でかい声」だった。なぜか。思考は、「いま現在起こっていること」で、消える運命にあるからだ。母親の声は、たった今目の前で起こっている現実であり(思考が作り出す妄想とは違って)、それに本当の自分の体と心が反応する。その瞬間、思考に乗っ取られていた自分が、本当の自分に戻ってきたのである。もっとわかりやすく言えば、地震に遭遇した感覚を思い出してほしい。その瞬間、考え事などしている人はいないはずだ。母親の声で「我に返った」私は、慌てて「深呼吸をして」心身を一致させるようにした。すると思考のBGMが消えて、急に人生がわくわくして「いい気分」になり、時間を忘れて作業を行い、ちゃんとお腹がすいて食事を楽しむ、本来の人間としての自分を取り戻したのである。
「不安にかられて無意識でうわの空」の自分と「いい気分でわくわくしている」自分のどちらが本当の自分だろうか?私なら迷いなく後者を選ぶが、思考はまたトラップを仕掛けてくる。それに引っかかる人が実に多いのだ。
思考はその持ち主であるあなたが「いい気分」でいるのが気に食わない。「絶対によくないことが起こるよ」と言い出すのだ。「好きなことしてていいの?」「それほど人生は甘くないよ」「人生は我慢だろう」と。それに対して「それもそうだよな」と思ったあなたは、もとの「不安を起点とした」つまり思考に操られた人生に戻っていくのだ。そのくりかえし。思考に乗っ取られた人生というわけである。思考に乗っ取られた人は、楽しそうな人を見ると、こう言うだろう。「好きなことだけして勝手な奴だ」と。それはその人の意見ではない。その人の思考の意見なのである。
ここで疑問に思う人もいるであろう。「思考を悪者のように言うけど、思考だって本当の自分自身じゃないのか?」「思考にしたがっているおかげで、悪いことが起こらないのでは?」と。私も最初は(ちょびっと)そう思った。が、自分を観察していると、思考が暴走していない「無心」のときに、より深くて大きい幸福を自分が感じていることを確信したのである。たとえば、ただ集中して野球の試合を眺めているとき、裏山の木々が風に揺れるのをじっと見ているとき、時間を忘れてピアノを弾いているとき。。そういうときに自分が、まるで妙な知恵が付いていない「幼児の頃に帰ったような」温か~い気持ちになることに気づいたのだ。しかし、そういうとき、やがて必ずいい気分を中断させようと、おなじみの思考が邪魔を入れてくる。
「おまえ、仕事もしないでそんなことしてていいのか。路頭に迷うぞ」
あるとき、その思考の出現に気づいた瞬間、私は「ほーらほら、おなじみの思考のお出ましだ。なーにが路頭に迷うだ。迷ったことないし、別に迷ったってかまわんし」と思うことができた。するとまた、楽しい気分に戻ることができたのである。そしてそれは持続した。この瞬間こそが!革命だった。そしてこれが実は「さとり」への第一歩だったのだ。
というのは、この瞬間、私はトールの言う「思考を観察していた」状態にあった。そしてその主体は、思考よりも深いところにある、温かい自分自身(これが「大いなる存在」である)であった。つまり、思考は自分自身ではない、ということを身体で「感じる」ことができたのである。そして、それは実に「気分がいい」ことだったのである。気分がいいことが悪いことなわけは、ない。ついに私は気づいてしまったのである。そこから私の人生が「がらり」と変わる。この年になるまで私を悩ませてきた「思考」というものが、どれほど厄介なものか。それを次回は解析していこう。(どこまでもつづく)

さとりをひらいちゃったのかもしれない(2)

さて。さっそくその薄くて読みやすそうな文庫本(「人生が楽になる超シンプルなさとり方」エックハルト・トール)を手に取った私は、得意の「斜め読み」を開始した。なにごとにも懐疑的な私は、たいてい本だってゆっくりくつろいで読むということはなく、まずは「何かしながら」斜め読みをするのだ。自分とっておもしろいかどうか判断して、時間の無駄にならないように。
で。ぱらぱらとめくってさっそく目に飛び込んできた言葉が、「大いなる存在」である。「大いなる存在とひとつになることが、さとりである」(引用は要約:以下同じ)と、いきなり書いてある。あらら。宗教?そっち?といきなりくじけながら、目でその先の文字だけを追いながら、自問自答モードに入る私。そう。「自問自答」も得意中の得意だ。本を読みながら「これっておもしろいのか?」散歩しながら「こんなことしてて、いいんだっけか?」。。肝心の本の内容や、いい景色なんて、「上の空」。あるいは自問自答がさらに暴走して、たとえば美術館で絵画を鑑賞してても「この絵の前に何分くらい立ってるべきなんだろう」とか、自分がステージで演奏しているときに「いま駐車場代いくらくらいになってるだろう」とか。古くなったWindowsパソコンのように「ぶーん」「ぶーん」と不規則で不愉快な回転音が常にしている、私の頭の中なのである。なんとなあく宗教、それもキリスト教の匂いを感じたので、本能的に「あ、もうだめか」とこの本をあきらめかけたとき、そんな自分の心の中を見透かしたように
「ひっきりなしの思考の騒音が心の平安を妨げる」
という文字が、「すとん」と私の心に入ってきたのだ。
トールはさらに言う。「思考の暴走は、にせの自分をでっちあげる」と。ここで私は本を置いて、考え込んだ。思考の騒音?にせの自分?思考は悪いことなのか?
私はこれまでずっと、「いろいろ考えるから、人はえらいんだ」と思ってきた、かも。少なくとも考えるほうが考えないよりも頭がいい、そして頭がいいことはいいことだ、と思ってきた、かも。かも、かも、と言ってるのは心のどこかでは、「何も考えていない」ようなあけっぴろげな人をうらやましいと思っているから、かも。自分は考えすぎて迷走する傾向にあることも自覚している、かも。かも、かも。うわあ。これは完全に「思考の暴走」なのだが、考えてる自分って、「にせの自分」ってこと?じゃあ自分ってどこにあるの?
畳み掛けて。トールは、言う。
「自由への第一歩は、思考が本当の自分ではないと認識すること」
この言葉が私の心を怪しくとらえ、そのときばかりは私の頭は自問自答をやめていた。そして、「ひょっとしたらこの本はすごいかも」と思った瞬間でもあった。特に「自由への第一歩」というフレーズが私の心を揺さぶった。好きなことばかりしている(つもりの)私は、確かに満員電車にも乗らないし、大好きなプロ野球の平日試合に開門時間に駆けつけるほど、時間は比較的自由に使える環境に自分をおいている。しかしそれでもなぜか自分を「自由だ」と感じれない、ジレンマに悩んでいたからだ。
この本は、ひょっとしたらすごいかもしれない。そう「直感」して「雑念なし」で「目の前の文字に集中して」読み進めていく決意をした私は、さっきまでの私とは「違う私」のような気がした。そして、その姿勢こそがすでに「さとり」であったことを、この本を通じて「心の奥底で」理解することになるのである。(つづく)



さとりをひらいちゃったのかもしれない(1)

いきなりだが。最近わしは、人生最大の変化を体験した。変化と言っても「尻尾生えた」とか「投獄された」とかそういうわかりやすい変化じゃなく、「内面」の変化なのである。変化と言うより、覚醒と言うべきか。それが「わかった」瞬間、わしの内面は劇的に、しかし静かにおだやかに、変化をとげた。そして限りない平和な開放感を味わったのだ。それは内面にありがちな移ろいやすい変化ではなく、ずっと持続し、その日を境に明らかに自分と世界の「様相」が、変わっちゃったのである。内面?「うさんくさっ」と思う気持ちは、わかる。でも、「わかった」からといって、わしは頭丸めて「ちりんちりん」とお布施くださいと歩き出したわけでは、ない。外見上は何も変わっていない。ふだんの行動も言動もたいして変わっていないだろう。じゃあ何が変わったのか?それをしばらくこのブログで、もったいつけて少しずつ書いていきたいと、思う。これは自分へのお祝いでもある。ほんとーに、いい気分だ。自分のブログだもん。なにやっても、いいよね。

タイトル
「さとりをひらいちゃったのかもしれない」
(1)
その日も私は、図書館で興味のおもむくままにいろんな本をピックアップしていた。53歳。いい年になるが、いまだにあらゆることに興味だけはつきない。そろそろ年金の計算を。。なんて生き方はしてこなかったので、人生とのつきあいのほうはトラブルの連続だ。これまでも。たぶんこれからも。ずっと、好きなことだけをやってきた。それはやめられない。でもそれではダメだと責められる。マジメな人を馬鹿にしていると言われる。で。好きなこと以外の人生を適当にやり過ごそうとする(かなり優秀な)自己防衛本能がはたらき、「自虐」と「なりすまし」でなんとか格好だけを「なんちゃって」でつけてきた。一人息子はめでたく成人させたし(これにはもちろん後悔していない)、分不相応な家まで持っている。ローンで(これには後悔している)。
この間、迷走する自意識をもてあまし、本を片っ端から読んで自分の頭にありとあらゆるいろんなことを詰め込むことが習慣になっていた。図書館や本屋にいると安心できる。「世の中にはありとあらゆる価値観がある」と思えるから。自分だってその一例だと、思いたいから。しかし、まさに数え切れないほど図書館や本屋に通いながら、何十年も見過ごしていた価値観があったのだ。わざと避けていた、というか。
その日、一度に6冊借りることができる図書館で、すでに5冊を選んでいた私は、もう1冊。。できれば軽い文庫本。。と思ったところで、あることが心に浮かんだ。数日前に友人から借りた本を読んで、忘れがたい感銘を受けたことを。その本はパウロ・コエーリョの「アルケミスト」。ふだん読まない類の、「夢を追う寓話」だ。このストーリーが妙に心に引っかかった私は、この本が(世界的なベストセラーだということも知らなかったが)「精神世界」「スピリチュアル」系にカテゴリーされていることを知り、なんとなくそういうのを「オタクの現実逃避ね」と鼻で笑っていたのを少し反省したのだ。それを思い出し、じゃ、そのジャンルから1冊借りてみるか、どうせ図書館だから無料だし。。と。で。そっち系の書棚に向かい、文庫本の列からなるべく読みやすそうなのを、すっと迷いなく引き抜いた。その名も「人生が楽になる 超シンプルなさとり方」って。。安易なタイトルに冷笑しながらも、その日はそれ以上探す気力もなく、抱えていた本の上にこれを「ポン」と重ねて「借りる窓口」に向かう。この行動が、まさか、私の人生を変えることになるとは。 (つづく)

金子と千尋

写真.JPG
今年の楽天・田中は
「水島新司の漫画か!」
ちう成績だったわけだが
(漫画のストーリーとしても
 リアリティに欠けて却下だろうが)

レッドソックス上原のおかげで
田中もかすんでしまったように
その田中のおかげでかすんでしまったのが
オリッ・金子なのである。

毎年、優秀な投手ということは認知
されながら
「故障しがち」「ここ一番」の弱さを
指摘されがちだった、金子。

昨年はキャンプ初日の
「キャッチャーを座らせて30球」
でいきなり故障。

2年前だったか、
「勝てばCS進出」の地元最終戦で
ぼこぼこ打たれて大坂ドームを
「うめき声」であふれさせたのも
記憶に新しい。

そんな金子だが、
今年は通年好調で
15勝8敗 防御率 2.07

それでもほとんどの成績で
「化け物・田中」がいるので
2位だったわけだが、

奪三振200 完投数10 は1位。

田中のタイトル総なめは阻止。

楽点戦で田中にこの金子を
ぶつけていれば、
ひょっとしたら田中の無敗も
危なかったと思うのだが、
なぜか直接対決はなかったのだね。

で。毎年
「金子が一年通してちゃんと機能すれば」
と言ってたオリッは
「金子が一年通してちゃんと機能しても」
CSにすら行けないということがわかった。。

この一年であったのだ。

今年もグリーンスタジアム神戸で
野球が何度か見れたし、わしはそれで
ハッピーだったけど、ね。

それにしても。

「すいすい」ちう言葉がふさわしい
金子のピッチングは、
本当に見ていて気持ちのよいものである。

何年か前、
わしはグリーンスタジアムで
金子と岩隈の投げ合いを見たことがある。

その日は二人とも絶好調で
結局 1-0 で金子が完封したのだが、

延々とくりひろげられる
このスタイルの似た二人が
長ーい手足を駆使して
涼しい顔でキャッチャーに投げ込み続ける

「ぱすんっ」「ぱすんっ」

という小気味のよい音で
トランス状態になったことが、ある。

吠えたり飛び跳ねたり、しない。

二人とも女の子みたいな微笑で
涼しい顔でばったばったと打者を
討ち取っていくのである。

それはそれは。
ぞっとするような美しい光景であり、
なおかつ、
球場はのんびりした空気に満ちていた。

こういう奇跡は
テンションの高い状況ではなく、
「なにげない平日のナイター」で
けっこう、起こるのである。
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