SSブログ

さとりをひらいちゃったのかもしれない(4)

さとり(4)

「われ思う。ゆえに我あり」と誰かさんが、言った。解釈はさまざまだろうが、思う=思考しているんだから、自分自身は確実に存在しているよね?よね?ちう、悲痛な叫びが聞こえてくる。我々人間は、物心つくと、なぜか自分の存在が不安になってしまったりする。孤立感すら覚えてしまう人もいる。親子関係や人間関係に特別問題がない人でも、だ。そんな難儀な動物は人間だけだそうである(=人間不完全動物説)。
無邪気で、なんの怖れもなかった子どものころとは打って変わって、成長するにつれ自分の「外界」が怖くなってくる。そして必死に自分自身の存在を証明しようとする。そういう「不安」や「怖れ」を与えるのがまさに思考の得意技であり、それを起点にした活動こそが「エゴ」。エゴの誕生である。思考があなたを操って、「私はここにいるよ!」「ねえったら!いるよ!」と、さまざまなアピールを絶え間なく自分以外の「外界」に対して行う。ひきつった顔で。そして、それだけで一生を終える人が多い、というか「それが人生だ」と思っている人がほとんどかもしれない。
「学歴」、「所属団体」、「肩書き」、「所有物」、「お金」などへの度を越した執着は(それ自体が悪いとは言えないのだろうが)、まさにエゴの典型例である。まことにわかりやすいパターン。しかし、そういうことで身を削って生きている人がいるとすれば、まったくご苦労なことであると言わざるを得ない。なぜなら、エゴは、その宿主である人物がひとつの課題をクリアしても、冷酷に次々と課題を突きつけるからである。
エゴを支配する思考は「不安」「怖れ」がなくては生きていけない。「もっとすごい奴がいるぞ」「それでは一番とは言えない」。。終わりがない。しかも「一番」なんてことは誰にも証明できないので、誰ひとり救われない。すると、そこに気づいた人の思考は折衷案を提案し、「せめて世の中の平均になっておいて平均以下の人に勝とう」「リスクは避けてせめて無難なほうにしといたほうが」などと言う。が、エゴはそれが折衷案だということがわかっているので、それに支配されている本人は永遠に心が晴れないちう、「ああしんど」な人生を延々と送ることになるのである。もうちょっとひねくれた思考の持ち主なら、「馬鹿にされないように、誰も目指さない生き方をしとく?」とアウトローを気取ったりして、そんな生き方を必死でアピールしたりするが、それだってエゴに支配されているという意味では、同じことなのである。ああしんど。
思考は持ち主を「外界」と「切り離して」勝負させようとする。だから思考に支配されると孤立感=不安を感じるのである。もしも地球上に人間が自分ひとりしかいないとしたら、誰も「生き方」なんてことは考えないであろう。生きるだけ、である。そして思考は、常に「外界」に向けて何かをさせようとする。「いい会社に入らないと、恥ずかしい思いをするよ」あるいは「その年で**を持っていないようでは、バカにされるよ」「人と違うことをしないと目立たないよ」。。思考はあなた自身にそういう不安を与え、「努力させて」あなたを「何者か」に仕立て上げようとする。それだけでは満足できず、たとえば自分の子どもをいい大学に入れよう、恋人に自分の不安を解消させよう、など他人をもコントロールしようと目論む。そして常に不安でたまらない我々は、自分の行動を必死で外界にアピールすることに、一生を費やすのである。まことに、心休まらない。
私は法事で、悟りに近いところにあるはずである「坊さん」が「ベンツ」で登場して、「自分の知り合いの元ヤンキーが、自分の説話のおかげで心を入れ替え、超一流の三菱商事に入社できた」という説法をたれたので、唖然としたことがある。その俗っぽさもさることながら、それが自慢話になっていることに本人が気づいていないからだ(たいがいの人間の話は、結局のところ自慢話だが)。エゴ、全開である。思考に自分をのっとられている聖職者ほど見苦しいものはない。坊さんにしてからが、心が内面に向いていないとは。
さて。さきほど、「われ思う。ゆえに我あり」にふれたが、この言葉について、トールは重要な解釈をしている。トールは言う。「考えているのが自分、なのではなく、考えているということを感じているのが、本当の自分」と。つまり、「思考」という存在に気がついた「もう一人の自分」がいて、そちらが「本当の自分自身」なのだという解釈。まさに。この「気づき」がすべての始まりなのである。前回に私が「ほーらほら、思考のお出ましだ」と思った、あの感覚である。その感覚さえ体感できれば、思考と自分自身を「切り離す」ことができる。誰にだってできるはずだ。何か不安を感じたら、「ほんまか?その不安」と思ってほしい。「まだ起こってもいないこと」についてくよくよ考えはじめたら、思考のおでましである。
思考は本当の自分ではない。たとえば「思考に乗っ取られた」あなたが、ある決断を迫られたとする。「今後のこと」を考えれば出ておいたほうがよさそうな懇親会と、ステキな仲間がいて想像しただけで「わくわく」するパーティが、重なったとする。不安を行動原理とする思考はもちろん前者を選び、あなたはそちらに参加するが、気持ちは「ざわざわ」している。あるいは、家に「ライフプランナー」なるダークスーツを着た営業マンが押しかけ、「将来の不安」に訴えかけて保険に入らせようとする。あなたは妻の手前もあってサインするが、心は「ざわざわ」している。。この「ざわざわ」こそが、思考に対する本当の自分自身の違和感なのである。
とてもわかりやすくいえば、何かの行動をして「わくわく」したらそれは本当の自分自身のオーダー、「ざわざわ」したら思考のオーダーである。いくら頭で否定しても、この「わくわく」と「ざわざわ」だけはごまかせない。感情は本当の自分自身の反応であり、思考とは別物だからである。
「わくわくしてばっかりだと、路頭に迷うのでは?」と思ったあなたは、またぞろ思考のトラップにはまっている。もちろん、思考は悪者ではない。思考がないと我々は事務処理もできないし、効率的、適切に人生を送ることはできない。しかし、ここが重要なのだが、思考は「使う」ものであるということ。そう。思考と自分自身をさきほどの「わくわく」「ざわざわ」の論理で切り離せばいいのだ。意に沿わないことをしなければならないこともあるだろう。そういうときは「ざわざわするなあ。これは思考がさせてる行動だなあ」と感じるだけで成功である。
ほとんどの人が思考を自分自身だと考えているので、しんどい。なぜなら、何度もくりかえすが、思考は常に「不安」「怖れ」を持ち主に与えるという特徴を持っているから。実はこれは、「単なる特徴」である。もう一度言うが、それは「単なる特徴」なのだ。そんなものを自分自身だと思っていると、一生を「不安」と「怖れ」で終えることになってしまう。そんなの嫌でしょ?
次回は、トールが定義する「思考の特徴」について
(つ、つづく)

nice!(0)  コメント(6)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 6

ロニ

買い物に行って、赤いのをパッと見て「あ、これいい!」と思った瞬間に
でも「青い方が使いでがあるし青が似合うって言われたし無難そうだし」って言うのがかぶせるようにやってきて、青いのを「よーく考えて買った!」と満足して
そのうち「直観で青だと思った」なんて思い込んでたりしてた。
最近、赤いの持ってたら嬉しいという理由だけで買えるようになりました。
by ロニ (2013-12-09 22:31) 

MINAMI

>ロニさん

そうですねん。
自分の直感を信じることは大事
なんすよねえ
一晩考えたことは必ず失敗します
by MINAMI (2013-12-10 00:35) 

りか

なにをしてても♪
いつも わくわく♪
で、まいります。
by りか (2013-12-14 13:02) 

かおりん♪

南さんは、やはり頭がいいなぁ。

私はかなり前にそういう状態になってたけど、人にうまく説明できなかった~(^_^;)

本を読んでそういう状態になるっていうのも男の人らしいかな。
理論で納得したら、変化が速いですもんね。


直感力は大事ですよ。でもさとってない場合はちょっとぶれてしまうこともありましたが・・・・

今は~そらもう(笑)
恐いものなし・・・?!(笑)

今後の展開をさらに楽しみにしております~♪
by かおりん♪ (2013-12-14 14:23) 

MINAMI

>りかさん

はからずも、
そういう歌詞を作っていましたね!
わくわくしましょう
by MINAMI (2013-12-15 10:44) 

MINAMI

>かおりん

さとりっちうのは
女性のほうが開きやすいそうです
オトコは頭で生きようとしますからね
だから争いごとばっかりですね
by MINAMI (2013-12-15 10:45) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。